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大川小学校児童津波被害国賠訴訟を支援する会です。

陳述書
平成29年3月29日
仙台高等裁判所第1民事部 御中
鈴木 実穂

「震災から6年」今年は七回忌ということもあり、このワードがいたるところから聞こえてきます。あの日の教訓を後世に・・・あの日の出来事がもうすっかり過去形で取り扱われるようになり、私をはじめ行方不明者がいる遺族にとっては、益々置き去りにされたような複雑な想いでいる人も少なくないのではないでしょうか。

あの日から娘の亡骸にも会えず、本当に死んでしまったのか確固たる証拠も無いまま6年、私には区切りも節目もありません。娘の亡骸が冷たい海の底で魚についばまれ痛い痛いと泣いているんじゃないか。暗い土砂の中に埋もれ寒い寒いと泣いてるんじゃないか。お母さん、どこ?そう言って暗闇の中をさまよっているんじゃないか。今でもそう思わない日はありません。悲しいことに、意識して子供達のことを思い出さないように、感情のスイッチをオフにしておかなければ日常生活は送れません。今の私は生きていても死んでいるのと同じです。最近では「早く子供達の所へ行きたいなぁ。死んだら今より楽なんじゃないか」頻繁にそう思うようにもなりました。と同時に両親のことが頭をよぎります。私が命を絶ってしまったら私の両親もまた、子供達を喪った私のように辛く苦しい想いをするに違いない。孫を喪い、私まで喪ってしまったら両親も生きてはいられないだろう。

そんな私の心の中を見透かしたように、ある時父が言いました。「俺が死んだら遺骨はお墓に入れなくていい。巴那がお墓に入ってないのに俺が入るわけにはいかない。手間をかけさせて申し訳ないけど、骨の半分は生まれ故郷の栗駒山に散骨してほしい。そして残りはどこかの海に流してくれないか」栗駒山に散骨することは納得できましたが、どうして海なのかと尋ねると「海はつながっているから、巴那がどこかの海にいるとしたら、いつか逢えるかもしれないからな」父の言葉を聞いて頭を打ちのめされたような感覚になりました。その時、孫を喪った父の深い心の傷と覚悟を思い知らされました。また主人は5歳で父親を亡くし、以来母と苦労して生きてきました。家庭をもち、子供が生まれ、やっと人並みのささやかな幸せを味わうことができたのです。その幸せも束の間、主人は子供達を失い再び深い谷底に突き落とされてしまいました。多くの幸せを望んだわけではないのに、どうしてそれさえも許されないのでしょうか。大川小の事件は、親達そして子供達を取り巻く者の人生までも狂わせました。

子供達が地震から津波に呑まれるまでの経過を聞くだけでもかわいそうで耳に入れたくない。という遺族がいます。でも子供が見つかった人は「かわいそうだから」で済むかもしれません。でも私はそうはいきません。私はまだ帰ってこない娘のために、かわいそうでも、辛くても、この事件から目をそらさず向き合わなければなりません。娘を産んだ母親の責任として、何も無かったことにしてはいられないのです。今でも震災後の地獄のような日々がしっかりと脳裏に焼きついています。変わり果てた釜谷の町を見た時の衝撃。親達は悲しみに浸っている間もなく子供達を血眼になって探し続けました。わが子でなくても見つかれば自分のことのように喜びを分かち合い涙しました。そんな中でわが子が見つかると一人、また一人と現場からいなくなっていきました。その日の捜索を終え向かうのは決まって遺体安置所。「今日確認された遺体の中に子供はいなかったよ」顔なじみになった警察官が教えてくれるようになりました。遺体安置所に夕方訪れる顔ぶれも御馴染みになり「今日も見つからなかったね」そんな会話を交わしそれぞれの避難所へ足取りも重く帰って行く。なぜ見つからないんだ。孤独感、焦燥感、絶望感。

平成23年9月、遺体確認もせずに手続きしなければいけなかった死亡届。悔しくて、娘に申し訳なくて役場の駐車場で大声を上げて泣き続けました。娘が微笑む遺影の前に、何も入れるものがない空っぽの骨壷が置かれ、屈辱の思いで執り行った葬儀。いつか必ず見つかると願いを込めて作った新しいお墓。いまだに願い叶わず、ただただ「ごめん」と謝ることしかできない親の思い。この思いは子供が見つかった他の遺族には分かりません。あの日「いってきます」と元気に家を出て、いまだに私の所に帰って来たくても帰って来れない娘のために、また今後、もしも学校管理下で同様の事件が起きた際、私達のように泣き寝入りする親が一人も現れることがないように、勝訴を勝ち取り良い前例を残したいと思います。それが今の私に課せられた最大の使命だと思っています。

村井知事の数々の発言に対して述べさせていただきます。「教員も11人中10人が亡くなった。ベストと思う選択をした結果、あのような事態になった」さらに県教委の高橋教育長も「教職員は命を賭けて児童を守り、過失を認めることは受け入れがたい」と発言しました。先生達は大人です。自分達の判断で校庭に居続けたのですから仕方のないことだと思います。助かった4人の児童だって皆自力で生きながらえました。先生達が命を賭けて救ってくれた命など一つもないのです。

震災の前々日の3月9日にもマグニチュード7.3の地震がありました。その晩主人は家で子供達に「今度今日みたいな地震がきたら津波が来るから逃げろよ」と言いました。3月11日の地震の際子供達は「お父さんに逃げろって言われたのに」と思っていたはずです。子供達は避難したくても先生に従わなければなりません。教員と児童間には強い服従関係があるため学校側には高度な注意義務が要求されます。しかしながら大川小では地震から50分近く経ってからやっと動き出し、さらに複雑に入り組んだ民家の中を通らせています。一刻も早くと考えるのであれば、学校前の県道を通らせるのがベストです。さらにはあれほど裏山の倒木のことを懸念していたにもかかわらず、わざわざ山際を通らせ移動させています。スクールバスも待機していました。恐怖と寒さでお漏らしをして泣いていた低学年もいました。とりあえずバスに子供達を待機させ暖をとらせるべきでした。寒さもしのげ、なにより子供達全員を短時間で移動させることができ、バスは全ての条件を満たしています。どうしてわざわざ寒い校庭に子供達を待機させ、時間をかけ複雑な避難経路を通らせなければいけなかったのか、これがベストな選択だという知事の感覚には驚愕してしまいます。

また「教員、行政は全員を安全な場所に避難させなければならず、短時間で判断するのは無理があった」と発言しています。教員は第一に子供達の命を守らなければいけません。先生達は住民の命までも守らなければいけない義務は課せられていません。住民の命は行政、いわゆる支所職員が守らなければいけなかったのではないですか。当時支所職員は6人も釜谷にいたのです。津波が松原を抜けてきた光景を目撃しUターンして来た職員達は一目散に学校前を通過し三角地帯へ車を走らせました。本来なら学校に立ち寄り、危機意識をもって教員、住民に津波が来ていることを伝えるべきだったのではないですか。結局職員達は、学校の裏山より極めて極めて急なコンクリートののり面を駆け上がり助かっています。1人の職員は亡くなったと言いたいでしょうが、こちらは74人です。そしてうちの娘はいまだに行方不明です。「短時間での判断は無理」何を言っているのですか。他の学校では早々に避難先を決め皆助かっているではありませんか。学校管理下でこんなに多くの子供達が死んでいるのは大川小だけです。

また、「亡くなった子供の親が全員裁判を起こしているわけではなく、耐えている人もいる」と知事は発言しました。震災当時の●●校長や石巻市長、市教委の非情な態度に今でも憤慨し、同調してくれている遺族は大勢います。もちろん提訴した私達だって初めから裁判を考えていたわけではありません。忘れもしません、震災からまだ3ヶ月、家も家族も失い自分の身に何が起きているのかも理解できていない状況の中、私達遺族は、市長から「宿命」という言葉を突きつけられました。「自分に置き換えた場合の発言」とはいうものの、遺族に対して絶対遣ってはいけない言葉です。子供達を亡くした私達にはどう解釈しても「宿命なのだから諦めなさい」としか受け取れません。それ以来多くの遺族が意気消沈し話し合いの席に着くことさえできなくなりました。裁判に加われないほどのダメージをあたえられました。市教委との話し合いでも誠実さの欠けた対応に回を重ねるごとに溝は深まり不信感は募る一方でした。生存児童や●●先生の聞き取りに関しても、都合の悪いことは隠蔽し、数々の証言の食い違いが指摘されました。話し合いの時点で、私たち遺族はもうすでに耐えに耐えていました。逆にどうして私達がこれ以上耐えなければいけないのでしょうか。提訴に踏み切らざるを得なかった状況に追い込んだのは石巻市です。

昨年10月28日、判決から2日後市長は「危険な山に7分で逃げられるとは思わない」と一審判決に対して反論していましたが、10月30日石巻市長から控訴の是非を委ねられた臨時会において議員から「市長は裏山に登ったことがあるのか?」と尋ねられると「登っていない」と平然と答えました。この事件で問題視されている裏山に登ったこともないのに、どうして「裏山には逃げられない」と断言できるのでしょう。自ら一度でも裏山を登ってしまえば登れるということを証明してしまう。そう考えて意図的に登ろうとしなかったのでしょう。知事も「震災当日みぞれが降り余震が続く中・・」と当時の状況を言っていましたが、避難時みぞれは降ってはいません。

初歩的な事さえ把握しておらず、この事件を知ろうともしていない人達に、防災教育、減災、いのちを語る資格はありません。大川小の事件を軽視し子供達の命に真摯に向き合っていない証拠です。真剣に学校防災を考えるのであれば「ベストな選択だった」とか「想定外の言葉からのがれることはできない」などと子供の言い訳は止めて、過ちを全て認め、まずは大川小の災害の深い反省から始めなければいけないのではないですか。学校管理下で多くの子供達の命が亡くなった世界でも前例のない事件が、この宮城県石巻市で起きたのです。この事実に、目を背けることなく知事も市長も、亡くなった子供達の命をきちんと真正面から受け止め考えるべきです。こうした一連の事後対応により遺族は深く傷つけられました。事後的不法行為に関する注意義務違反を認めていただきたいと思います。

●●校長に関しても、震災時学校不在だったということで過失が認められず残念でなりません。昨年4月8日に行われた●●校長の証人尋問では、校長としての資質の欠如を感じさせる発言が随所に見受けられました。特に「万が一、大川小まで津波が来たら山に逃げるしかないかな、と話した」と震災の2日前と1カ月前の2度、津波を想定し、教頭や教務主任と協議した事実を認めたものの、吉岡弁護士が「『万が一』を考えるのが校長の役割ではないか」とただすと、校長は「万が一は言葉の中での動きだと思う」とあきれた発言をしました。校長が学校現場で100パーセントと思う安全対策を講じるのは当然のことです。ましてや先生の指示がなければ自ら行動することができない小学生児童に対してはなおのことです。150パーセントいや200パーセントの対策をしなければいけません。学校安全法にも「校長は『危険等発生時対処要領』の職員に対する周知、訓練の実施その他危険等発生時において職員が適切に対処するために必要な措置を講ずるものとする」とあります。校長は明確な避難場所を決定せず、先生達に周知させる義務も怠っていた。学校最高責任者としてやらなければいけなかったことが実施されていなかったのですから安全配慮義務違反が認められるべきです。

また、平成24年1月の遺族説明会において●●校長は「校長としての責任感がなく私の怠慢だった」と自らの非を認めました。遺族から責任をとり辞職するよう言われると校長は「未発見の児童や教員が見つかるまでは校長を続けたい」と力強く明言しました。しかし、そのわずか2ヶ月後の3月にあっさりと依願退職し、マスコミから退職後のことを聞かれると、校長は「行方不明児童の捜索現場に足を運びたい」と話しました。しかし、退職後に捜索現場で校長の姿を見たことは一度もありません。校長の言動には全く信用性がありません。3月17日まで現場に近寄ることもせず、対策本部を立ち上げるどころか子供達を捜すこともせず、遺体安置所に来ても子供達の遺体を一人も見ることもなく、本人は遺体確認をしていたと堂々と語る。管理職としての意識があまりにも低すぎます。管理職に就いている者は身を犠牲にしても公を先にするために管理職手当てをもらっているのです。

●●校長のこれまでの数々の言動は懲戒免職にも価すると思いますが、依願退職を認め、さらに●●校長を校長にした県教委の見識にも強い疑問を感じます。大川小同様に重大な被害のあった石巻市門脇小学校の当時の校長先生は、的確な判断と行動力により指揮を執って震災時学校にいた240人ほどの児童全員を無事に避難させました。しかし、すでに下校していた7人の児童は亡くなってしまいました。校長先生はその7人の児童の名前を毎朝自宅の仏前で心の中で呼ぶそうです。そして「守ってあげられずごめんなさい」そう言って手を合わせるそうです。災害時に、いつもの避難訓練通り児童を避難させ、たくさんの命を守りそれでも尚全児童を守れなかったことに心を痛めいるという。地震直後の行動から事後対応まで最高責任者として本当にすばらしい校長先生だと思いました。と同時に、このような校長先生が大川小の校長先生だったら、きっと子供達を助けてくれただろうと思うと無念でなりません。

●●●●先生についてですが、●●先生に直接会って話したいこと、伝えたいことがたくさんありますが、今現在伝える手段が絶たれてしまっている状況ですので、この場で言わせていただきたいと思います。●●先生には今でも許せないこと、聞きたいことがたくさんあります。どうして津波から逃れ、山越えした後、大川小の先生であること、学校が大変な状況になっていることも告げずにその場からいなくなったのか。怪我もしておらず、少しも濡れていなかったという証言があるがそれが事実なら、どうして私達には木にはさまれ、怪我をして・・と嘘をついたのか。どうして嘘をつく必要があったのか。

ナンバー3の●●先生が、地震後三度も「山へ」と主張していたのにどうして受け入れられなかったのか。どうして落ち着いてからでも子供達を探しに来てくれなかったのか。私は、●●先生がいつか必ず捜索現場に来て、いっしょに子供達を探してくれる。そう思ってずっとずっと待っていました。でも、とうとう来てはくれませんでした。そんな先生を私は軽蔑し許すことはできませんでした。でも、PTSDを克服して子供達が大好きだった「●●先生」に一日も早く戻ってもらいたい。心のどこかでそう思う自分もいました。私達遺族だって、生き残った子供達だって、いろんな思いと葛藤しながらそれでも頑張って生きています。

病んでいるのは先生だけではありません。生き残ってしまったことで亡くなった子供達や先生達、先生達の遺族に申し訳ないという思いでいるのならそれは違います。亡くなった子供達も先生達も、●●先生の口から真実を話してほしいと思っています。周囲に惑わされることなく、少しでも自分の心の中に良心というものがあるのであれば、その思いに正直に真実だけを語るべきです。うその証言は誰も望んでいません。亡くなった先生達は●●先生が何度も訴えたように山への避難を即決すべきだった。子供達を守ってあげられなかった。残された私達遺族のことを思い後悔の念でいっぱいなはずです。亡くなった先生達は真実を伝えてもらいたくて●●先生に託しているのです。そのために生かされたのだと思って強い意志を持って真実を語ってほしいと思います。先生が語ることで今後の学校防災にも活かされ、救われる命もたくさんあるはずです。

七回忌も終わりました。子供達、先生達への供養だと思って自らの意思で行動していただきたいと思います。息子の卒業アルバムに寄せられた●●先生からのメッセージ覚えているでしょうか。「皆さんとは二年間楽しく理科の授業をすることができました。発電システムの基礎作りも楽しい思い出です。皆さんが卒業しても、大川の空が青空である限り、そして皆さんがいつものさわやかな風を吹かせ続けてくれる限り、システムは動き続けると思います。いつまでもお元気で!」●●先生と息子達が作り上げた発電システムの周りで、6年生全員と●●先生の写真が掲載されています。子供達は風力発電のプロペラを動かしてほしい!と●●先生が風を吹かせてくれるのを今か今かと待っていますよ。どうか立ち上がる勇気をもっていただきたいと思います。

最後に今も捜索を続けている永沼勝さんからの思いを陳述させていただきます。

「本来なら原告団の一員として法廷に足を運ばなければいけないところですが、捜してほしくて待っている子供達が居るかもしれないこの場所を、1分1秒も離れることはできません。子供達を見つけてあげたい一心で今日も捜し続けています。行方不明の子供達がどこかにまとまっていて、自分が操作する重機のバケットの中に全員の遺体がスッポリと入り、震災当初から車に携帯している毛布に一人一人包んであげる。そして「おかえり」と言って子供達を抱きしめる。この光景を鈴木さん夫妻とずっとずっと思い描いてきました。

そもそも子供達はどこから流されていなくなったのか?「石巻市」の石巻市立大川小学校からいなくなったのです。この6年間、私が子供達を捜していることを知っていても、先生達の遺族は一度だって捜索現場に来たことはありません。同じ遺族だと言うのであれば一度くらい一緒に子供達を捜してくれてもよかったのではないでしょうか。校長も対策本部を立ち上げることもなく、いつの間にか退職してしまいました。学校最高責任者がいなくなったのですから、石巻市が捜すのは当然のことです。しかしながら石巻市からも「子供達を早く見つけてあげなければ」という思いは伝わってきませんでした。

私が捜索現場から離れてしまったらきっと適当に終わりにされ、見つかるものも見つからなくなってしまう。始めから信用できる捜索への対応をしてくれていれば遺族である私が今もこうやって現場にいることはなかったと思います。どうか裁判官の皆様に、見つからない子供達の心の叫び、今も子供達に会うことができない親の想いを分かっていただきたいと思います」

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大川小学校児童津波被害国賠訴訟を支援する会

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あのとき、大川小学校で何が起きたのか

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