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大川小学校児童津波被害国賠訴訟を支援する会です。

陳 述 書

平成30年1月23日

鈴木 実穂

 子供を失い、家を失い、失望の中、意を決して提訴に踏み切った2014年3月。あれから3年10ヶ月、本日、結審を迎え、走馬灯のように色々なことが思い出され、大変感慨深いものがあります。一審で勝訴の判決をいただくことができましたが、石巻市、宮城県の即日に近い控訴により、私達は安堵する間もなく、また失意のどん底に突き落とされました。一審判決の内容は決して、私達遺族にとりましても満足できるものではありませんでしたが「裏山への避難は可能だった」「教員らは津波襲来を予見できた」「不適当な避難場所を選定した」この判決は、私達が主張してきたとおり、認められて当然の内容であります。石巻市、宮城県がいかなる理由付けをしてきても、この判決は覆されることはなく揺ぎ無いものだと確信しております。控訴されたことには大変憤りを感じましたが、私個人の思いとしましては、高裁で「事前の学校防災対応」について、改めて審議できたことは、大変意義のあるものだったと実感しています。

大川小だけがこのような甚大な被害に遭ってしまったのは、○○校長の怠慢と市教委の学校防災意識の低さによるものだということを、証人尋問により、あらためて確信しました。校長の責務を明らかに怠っていた事の一つに、引渡しのあり方が確立されず滞ったままだったことが挙げられます。○○校長が平成21年4月の大川小赴任時に保護者から防災用児童カードを提出してもらい、児童引渡し確認一覧表を作成しなければならないことを、前任から引き継ぎ、○○校長も承知していました。にもかかわらず二年間手付かずで放置されていたことは、怠慢のなにものでもありません。作業を怠ったため、結局○○校長が就任していた間に引渡し訓練は実施されませんでした。しかし、教育計画には防災用児童カードの運用が明記されていました。市教委は、このような大川小の杜撰な教育計画を、点検、指摘することなく、容易に見過ごしてきました。まさしく学校保険安全法の第26条による、学校の設置者である市教委の責務に反するものであります。私の義理の母は地震後、孫達の帰宅を待ちわび、自宅から一歩も外に出ることなく犠牲になりました。私が在住していた長面地区の多くの祖父母達も同様に自宅で犠牲になっています。○○校長が早急に引き渡しの具体的な方法を確立し、保護者への周知を徹底していれば、祖父母達は孫達の安否を気にすることなく直ちに避難し犠牲になることはありませんでした。校長として、市教委として、平時から学校防災に忠実に取り組んでさえいれば、子供達の命、祖父母達の命が奪われることはありませんでした。よって○○校長、市教委の責任は重大であり、地震発生前の平時における安全義務に違反するものであります。この事件は明らかに人災によるものです。

これまでも一貫して主張して参りましたが、私が提訴に踏み切ったのは行方不明の娘への想いがあります。遺体が見つかったのと、見つからないのとでは雲泥の差があります。いまだに娘を葬ってあげられないことで、親の私もさることながら、私の父と母の心労をも増長させました。父は昨年頃から認知症の傾向が現れ始めました。ずっと張り詰めてきた気持ちが一気に切れてしまったかのようでした。これまで人前で泣くことなどなかった父が、私の前でも子供達の遺影に向かい声を上げて泣くようになりました。震災後から誰よりも気丈に振舞い、主人と私を気遣い、孫達がいなくなった悲しみを、父はずっと自分の胸に仕舞い込み耐えていたのです。子供達がいなくなって一番ショックをうけていたのは、本当は父だったのかもしれません。子供達が生きていれば、父はまだまだ元気でいたはずです。子供達の死、そして娘が行方不明であることは、私達と祖父母達の生きる力を喪失させ一生を台無しにしました。石巻市、宮城県には責任を取っていただかなくてはなりません。また、一審で認めていただけなかった、娘の捜索のために仕事を辞め、二年間働けなかったことに対しての保障も認めていただきたいと思います。X氏が7年間も教師としての地位のまま、経済的に保障されていることを考えれば、私の経済的保障が認められてもおかしくないものと考えます。慰謝料をあらためて請求し、損害論を是非構築していただけるようお願いいたします。

村井知事が、震災当時多くの高齢者が大川小に避難し教員らがその対応に追われた、教員らの努力を否定できない。と発言したことに対し反論させていただきます。先に提出されました、震災当日子供を迎えに行った保護者のAさんの陳述書で、Aさんは、大川小の校庭に子供達と教員らと子供達の保護者が何人か居たが、近所のお年寄りはいなかった。さらに、何人かの教員らは校庭にいる子供達の回りに立っていて、△△教頭がボードのような物を持ち、迎えに来た保護者の確認をしていた。と言っています。すなわち、大川小に地域の人達が押し寄せることも無く、指揮を執らなければならなかった校長代理の教頭が、自ら引渡しを勤め、さらに他の教員らも子供達の周りに立っていました。よって教員らは地域住民の対応に追われてはおらず、さらに避難を検討する余裕もあったことが分かります。

このような教員らの行動の、一体どこに努力を感じるのでしょうか。知事は不確かな情報をあたかも真実のように公言し、教員らをかばう振りをして世論を味方につけ、教育行政の責任を免れようとしています。また、震災から一年後の2012年3月11日、知事が大川小を訪れた際のことです。知事は私にこう言いました。三角地帯の方を向いて「こっちじゃないよなぁ」と言うと、今度は裏山の方を向いて「こっちだったよなぁ」と。つまり、教員らが子供達を避難させるのは、三角地帯ではなく、裏山だった。三角地帯への移動は判断ミスだったということを言ったのです。知事自身も十分分かっていたのです。そうであるならば専決処分で控訴を決めるのではなく、二度とこのような事件が繰り返されないように、首長として、県、国ぐるみで学校防災を見直し、私達の声に耳を傾け、改善に取り組むべきだったのではないでしょうか。大川小の事件をなおざりにし、やり過ごそうとしている宮城県の対応に強い不信感を抱きます。

高裁での審理となり、学校防災が争点となったことで私は、他校の避難行動を知るために、教員に知り合いがいる私の友人を介し、震災当時の避難行動を聞かせてもらいたいと伝えてもらいました。ところが、裁判に関わっている私のことを話したとたん、教員らは話はできないと断ってきて、こう言ったそうです。「避難行動と言えども、コメントすれば裁判に関わったことになる。亡くなった子供達のことを思うと胸が痛むが、たとえ大川小の避難行動が間違っていたとしても、亡くなった大川小の先生達を批難することはできない。」

一見、同僚をかばっているような話しぶりですが、私には、保身のための「組織防衛」「事なかれ主義」の言葉にしか受け取れませんでした。組織の中で足並みを揃えることが、そんなに大事なことでしょうか。大川小の避難行動が間違っていると認識しているのであれば、どうして声を上げて正そうとしないのでしょうか。大川小の事件に対して教員らの受け止め方がこの程度では、今後も子供達の命を守ることなどできません。また、証人尋問において、潮見裁判官が山田元郎氏に「教育専門家として児童の安全は教職員が守りますから安心してくださいと、そのような言葉は述べられませんか」と尋ねた際、C氏は最後まで「児童の安全を守れる」と言及することはありませんでした。児童の命を軽んじている、こうしたC氏の発言こそが、今の教育委員会の実態であります。子供の安全を守れないC氏のような人が、今現在も幼稚園の園長職に就き、教育現場に身を置いているこの現状に大変脅威を感じます。大川小の避難行動の一番の原因はまさしく「組織防衛」「事なかれ主義」だったということを、教育関係者一人一人が自覚し、今一度どうすれば児童の安全を守ることができるのかを真剣に考えるべきです。

最後に子供達からのメッセージを読み上げます。

「私は鈴木巴那です。私はあの日、地震の後、寒さと怖さで体の震えが止まらなくて、校庭でお友達と手をつないで励ましあいました。お友達のお母さんが次々とお迎えに来るのを見ていて、私も迎えに来てもらいたいなぁって思ったけど、お父さんもお母さんも仕事で迎えに来れないのは分かっていたから、諦めて先生の言うことを聞いて、じっと待っていました。お利口にしていれば絶対大丈夫だって思っていました。でも、校庭から出るとすぐに、ものすごい勢いの津波がきて、私は流されてしまいました。私はあの日から、まだお父さんとお母さんの所に帰れずにいます。他のお友達は見つけてもらって、お父さんとお母さんに抱っこしてもらったりしたけど、私はまだしてもらえません。私も見つけてもらったら抱っこしてもらいたい。ずっとそう思ってきたけど、もうその願いは叶わないみたい。だって、もうすっかり骨だけになっちゃったんだもの。でも、こんな姿になっても、お父さんとお母さんの所に帰りたいなぁ。あの日の朝お母さんが「いってらっしゃい」って、いつまでも見送ってくれたっけ。あれがお母さんとのお別れになってしまったね。大好きな学校で、頑張って泣かないで先生の言う通りにしていただけなのに、どうしてこんな悲しい目にあうの?どうして私はお父さんとお母さんの所に帰ることができないの?」

「僕は鈴木堅登です。あと一週間で小学校の卒業式だったのに。4月からは楽しみにしていた中学校生活が待っていたのに。レントゲン技師になるために、僕は私立中学校を受験した。合格発表の日、僕の受験番号「98番」を見つけた時は嬉しくて、あの時の感動は今も忘れないよ。でも、その喜びはあっという間で、夢も叶うことはなかった。3月11日、僕達は長い間、校庭で待機させられた。6メートルの津波って聞こえてきて、同級生の雄樹くんと大輔くんが「山に逃げたい」って孝先生に言ったんだ。僕も9日の夜、お父さんに「今度大きい地震がきたら津波が来るから逃げろよ」って言われてたから、すぐにでも校庭から逃げ出したかったんだ。でも、先生の言うことをきかないとダメだし、勝手な行動は許されない。だから、ずっとがまんして避難させてくれるのを待っていたんだ。やっと避難が始まって「良かったぁ」と思って間もなく僕の目の前に、ものすごい高さの津波の壁があらわれて、あっという間に波の渦に飲み込まれてしまった。必ず先生達が助けてくれるって信じてたから、僕達は先生の言うことを聞いて校庭でずっと待っていたんだ。先生達がもっともっと早く安全な場所に逃げさせてくれれば死ななくてすんだんだ。あの時12歳だった僕は、生きていれば今年20歳になる。来年は成人式だ。どんなに楽しい毎日を過ごしていただろう。大学生になっていたかな。車の免許も取っていただろうな。僕達の人生はこれからだったんだ。僕達はもっともっと生きたかったんだ。」

村井知事、亀山市長、この場にいる宮城県、石巻市の関係者、子供達の悲痛な思いが、どれほどあなた達の心に刺さりましたか?あなた達は家に帰れば愛しいわが子に会える。抱きしめることもできる。でも私はもう二度と子供達に会うことも触れることもできません。子供に先立たれた親の思いは一生です。子供達がもがき、苦しんで死んでいったように、私も死ぬまで子供達を想い、苦しみ、もがきながら生きるのです。震災当時の大川小の状況を思い浮かべてみてください。そして大川小の子供達が、あなた達のわが子だったとしたら。あの裏山にさえ登れば助かるのに、生き残ることができるのに・・そう思いながら、寒さと恐怖の51分間、子供達はどんなにか、あの裏山を恨めしく校庭から見ていたことか。先生達に助けてもらえると信じ続けながら、結局、最期は大量の水と土砂を飲み込み、流木や大きながれきに直撃され、もがき、苦しみながら息絶えて逝った、それがわが子だったとしたら。挙句の果てに三角地帯に並ぶ沢山の遺体は血だらけで、土砂で汚れ、その汚れをきれいにしてあげることもできなかった親の気持ちが、あなた達に分かりますか。この事件の全てに関して、血の通った対応をしてこなかった石巻市、宮城県を断じて許すことはできません。

最後に、 裁判官の皆様、この大川小の事件は、石巻市、宮城県の杜撰な学校防災を、徹底的に見直すよう、大川小の74人の子供達が尊い命と引き換えに問題提起した意味のある事案です。今後予想される、南海トラフ地震や北海道沖地震について警戒が叫ばれる中、再び学校管理下において、子供達の命が奪われることの無いように、また私達遺族のように一生泣いて暮らす親達が現れることのないように、次の世代に活かされる、つながる判決を切望して止みません。

再び陳述のお時間を頂けましたこと深く感謝いたします。

 

大川小学校児童津波被害国賠訴訟を支援する会

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あのとき、大川小学校で何が起きたのか

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